晩夏


 誰かに呼ばれたような気がして、時尾は目を覚ました。息子だろうかと思ったが、隣からは静かな寝息が聞こえるばかりだった。身を起こし、蚊帳の中から庭先をうかがう。
 その時、煙草の匂いに気がついた。
「…あなた?」
 闇の中で小さな赤い火が強く輝き、ゆっくりと煙を吐く気配がした。
「すまん、起こしたか?」
「いいえ」
 勉に布団を掛け直してやり、夜着の乱れを直してから、時尾は蚊帳を出た。
「お帰りなさいませ」
 煙草を踏み消して縁側に腰を下ろした夫に、深々と頭を下げる。
「汗を流してからお休みになりますか?」
「ああ、そうしよう」
 お召し物を持ってきます、と時尾は立ち上がった。夫が家に帰ってきたのは久しぶりである。仕事にいつも追われていて、ゆっくりできることの方が珍しい。
 背を向けて、まだいくらも歩かないうちに突然後ろから抱きしめられていた。驚いて振り向こうとするが上手くいかない。
「あなた?」
 何かあったんですか、という言葉を飲み込んで時尾は静かに目を閉じた。かすかに血の匂いがする。それが目立たないように、この人は煙草を吸うのかもしれない。
 こうして広い胸に身を預けていると、夫の穏やかな呼吸と自分のそれとがゆっくりとひとつになっていくのがわかる。頭を傾けて、その胸の鼓動に耳を澄ます。
 首筋に、軽く押し当てられた唇を感じる。そこから熱が広がっていくような感覚に時尾は小さく身じろぎした。抱きしめる力が少し、強くなる。

 甘い静寂を破ったのは、子供の泣き声だった。

「勉…」
 夫がすぐに腕を解いてくれたので、時尾は急いで布団に近づきぐずっている息子を抱き上げた。
「怖い夢でも見たのかしら」
 最近では、ほとんど夜泣きもしなくなっていたのだが。
「もう大丈夫よ?怖い夢なら」
 振り返り、時尾は夫に微笑みかけた。
「父上が追い払ってくれるから」
 夫はゆっくりと手をさしのべて、息子を受け取った。勉は涙のたまった目で父を見上げる。
 最初はおずおずと、やがてしっかりと胸にしがみついてくる息子の背を黙ってなでてやる夫の顔には、その光景を見つめている時尾と同じ、柔らかい優しい笑みが浮かんでいた。


 眠ってしまった勉を布団に横たえながら、夫が笑う。

「男子三日会わざれば、と言うが…」
「今日はたまたまですよ。最近は本当に良い子にしてますのに」
 いつ戻ってきてもすぐに休めるようにと一緒に敷いている夫の布団の上の着物を渡しながら、時尾は答える。
「明日は早いんですか?」
「いや、明日は休暇だな」
「勉が喜びますわね」
 うちわを取ってあどけない寝顔の方へ風を送る。夫が湯を使いに立って行ってしまうと、急に虫の音が耳に入ってきた。日中はまだまだ暑いが、どことなく秋の気配が漂い始めている。夏の暑さも、行ってしまうのかと思うと淋しいような気がする。


 ふと気がつくと、無意識に首筋に触れていた。まだそこに、熱が残っているような気がする。あの人が戻ってきてくれて、嬉しいのは何も息子だけではない。…あの人も同じように感じてくれているだろうか?

(こんなことを考えるなんて、なんだか可笑しい)

 明日はどこかへ涼みに行ってみようか、などと考えながら時尾は縁側に立った。降ってきそうな満天の星空が見える。きっと晴れるだろう、と時尾は微笑んだ。

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