The Long Goodbye
「飛影さん」
呼びかけても振り向かない背中を見つめながら、雪菜は続けた。
「私、あの人のところへ行きます」
少しの間があって、独り言のような素っ気無い言葉が返った。
「…あの男か」
「和真さんは優しいひとです」
「だが、人間だ」
いつまでも共に生きられるわけではない。覚悟はあるのかという言外の問いに、雪菜は微笑んだ。
「はい」
飛影は振り向き、初めて雪菜と目を合わせた。強い眼差しが絡まりあい、二人は互いの瞳の中に同じ氷の炎を確かめた。
それは雪菜には一瞬とも、永遠とも思われた。そのどちらも人ならぬ命を長らえる者にとっては同じ事なのだ。
「…」
飛影は懐を探ると、取り出した氷泪石を雪菜に差し出した。
「…これは、」
「おまえのものだ、返しておく」
「でも」
「おまえのものだ」
飛影は繰り返した。
「その男にでもやるがいい」
「…それは…」
「おまえの兄は生きていた。妹の幸福を望んでいる。だからもう会うことも無い…、」
自分の石を見つめる雪菜のまなざしは揺れている。
「そう言うんだな」
「でもこれは…、これは母の形見です」
雪菜にはどうしても受け取れない。
「だからあなたが持っていて、」
(私のことを忘れないで)
あとの言葉を、危ういところで飲み込んだ。それっきり、何も言えなくなる。
「おまえの母が、おまえのために流した涙だろう」
「…いいえ。母が望んだのは兄だけ」
母である氷菜は、分裂期に合わせて身篭った。その意味が分からない者はなかった。
「兄を守るそのためだけに私は生まれたんです。母の願いの化身として」
呪いのように、雪菜は繰り返した。
(それが私。母の思いの化身…それが私なの、兄さん)
「…忘れたのか」
しばらくの沈黙ののちに、穏やかに飛影は続けた。
「おまえの母は子を産んだとき、ふた粒の涙を流した」
その氷女の涙が化した氷泪石のひとつは母の分身でもある妹の氷女に、もうひとつは忌み児である兄に与えられた。
二人はまだその意味も知らぬ内からその石を肌身離さず持っていた。かえられない大切なものとして。
「ある時見失った石と妹を…兄は探し続けた。あらゆる手を尽くして」
飛影は雪菜の冷たい手を取ると、託されていた石をその持ち主に握らせた。
「オレは自分の石を見つけた…それに」
言いかけたままふと飛影は目を細めた。額の邪眼がゆっくりと開く。雪菜も顔を上げた。さすがに分かる。
強い力が近づいてくる。風を切って、轟音を立てながら。ああ、あれはあの移動要塞だ。
「…百足だな」
遥か彼方にようやくその姿が見えた。と、それはみるみる内に近づいてくる。飛影は肩を竦めた。
(…何か言わなければ。この人はもう行ってしまう)
雪菜は俯く。思いが上手く言葉にならないことに、苛立った。
「雪菜」
はっと顔を上げると、肩越しに投げられた視線にぶつかった。それは見たことがないほど柔らかかった。
「…幸せにな」
と、口だけが動いた。もはや間近になった轟音で、声がよく聞こえなくなってきている。
「兄さん!」
呼びかけは届いただろうか。飛影はもう振り向かなかった。その時、腕を組み百足の上に立つ者に気が付いた。
名前だけは知っている伝説的な存在が雪菜を見て微笑を浮かべる。その胸に氷泪石が揺れているのが見えた。
「…ありがとう」
躯と、その方向へ跳躍する飛影とに、雪菜は深々と頭を下げた。手の中の石がほのかに暖かかった。
「パトロールを勝手にサボったペナルティーは払ってもらう」
いくらか楽しそうに躯は告げ、飛影はあさっての方を向いたまま顔を顰めた。
「…まさか、それを言うためにわざわざ百足の進路を変えたんじゃないだろうな」
「何でもいいだろ。どうせしばらくは退屈な生活が続くんだ。気晴らしのネタがあればどこへでも行くさ」
今日は珍しいものも見られたし、という含み笑いに渋面で応えた飛影は、結局さらなる笑いを誘うに終わった。
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