MOMENT




「捲簾大将沙悟浄」
少し震えた声に呼ばれ、顔を上げる。
細い指で錫杖から解かれた小さな鈴。白い手が差し出すそれを、声もなく受け取った。
続けて仲間に呼びかける声を聞きながら、ただ掌の中に目を落としていた。
旅はここで終わったのだ。
それが己と仲間の望みであり、あの人はそれを受け入れてくれたのだ。

「―――さらば」

凛とした声。
その背を…もう振り向くこともなく歩みを進めるその背を、今ここで見送ることを誇りに思った。
握り締めた手の中で鈴の音が震える。
やがて音高く閉じた門が見上げている内になぜか歪み、視界が暗くなっていく。

(…お師匠様)

声は音にならなかった。
それはきっと許されないことだから。
それは―――



眩めくような光に続いて、頭に鈍痛が走った。
何度か瞬きをしてからゆっくりと開いた目に映ったのは近頃ようやく見慣れた天井と、そして…
「おはよう、悟浄」
「…金魚?」
「そう、あたしよ」
誰だと思ったの?ところころと笑う女を眩しそうに見ると、その膝に頭を預けたまま悟浄は身動ぎした。
「俺は…」
「どうしたの?」
「何が」
「魘されてたからさ」
まだぼんやりしている目許に金魚は手を伸ばす。
その指先から掬い取った水滴が落ちるのを悟浄は不思議そうに見た。
「何だ、それ」
「何って…」
戸惑った金魚が何か言う前に、悟浄は顔を顰めて小さくうめいた。
「頭が痛い」
「怖い夢でも見た?」
わざと冗談めかして言うと、清水に浸した布でそっと頭の皿を包んでやる。溜息をもらして再び目を閉じた悟浄を、金魚はじっと見詰めた。
悟浄がここへ来てからふた月にもなろうか。
旅が終わったのだと言う。
目的を遂げた後で自分の元を訪れてくれたことを金魚は喜んだのだが、悟浄は時々こんな風に魘されていることがある。相変わらず多くを語らない男だが、心をどこかに残しているのではないかと思う。

―――何を置いてきたの?

そう尋ねる勇気がまだ持てないでいる。
だから、その代わりに。
「…大丈夫、」
するりと悟浄の頬を撫でる。自分にも言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「大丈夫だよ、悟浄」
「金魚―――」
悟浄はふと笑みをこぼした。大丈夫、か。
「…そうだな」
「そうだよ」
今はこれでいい、と胸の内に呟いて金魚も微笑む。
ここを帰る場所に選んでくれた、それで十分。
いつか、置いてきたものを取りに行くのなら…

(その日が来たなら、疾走ればいい)

「顔洗って。御飯できてるよ」
「すぐ行く」
悟浄が身を起こすと金魚も立ち上がった。
朝日の眩しさに目を細めながら、悟浄は窓辺から庭を望む。
穏やかな日常。
己には望むべくも無かった筈の日々。
皆はどうしているだろうか―――と考えかけて首を振る。
便りの無いのが良い便り、ということもある。
そうであって欲しい…特にあの人には。

(いつか会うこともあるだろう)

思い出せない夢の名残にまだ少し頭は痛んだが、悟浄は金魚の待つ次の間へと歩き出した。
今日もよく晴れて良い日になりそうだった。


悟浄のささやかで平穏な家に二人の仲間が血相を変えて駆け込んでくるのは、まだ少し先のことになる。



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